徒然読書日記
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2025/12/31
今年の三冊
誰に頼まれたわけでもないのに、徒然なるままに「読書日記」を綴り続けている暇人が、満を持してお届けする。今年もいよいよ、毎年恒例の「マイ・ ベスト」発表の日がやってまいりました。なお、「今年の三冊」と言っても、「今年私が読んだ」ということで、発表されたのは必ずしも今年とは限りません ので、そこのところは、どうかお許しくださいね。
「ノンフィクション部門」
(国内編)
『僕には鳥の言葉がわかる』
(鈴木俊貴 小学館)
『酒を主食とする人々』―エチオピアの科学的秘境を旅 する―
(高野秀行 本の雑誌社)
『力道山未亡人』
(細田昌志 小学館)
(海外編)
『脳の中の幽霊』
(VSラマチャンドラン Sブレイクスリー 角川書店)
『詐欺とペテンの大百科』
(Cシファキス 青土社)
『万博と殺人鬼』
(Eラーソン ハヤカワNF文庫)
「フィクション部門」
(国内編)
『ゲーテはすべてを言った』
(鈴木結生 文藝春秋)
『本心』
(平野啓一郎 文春文庫)
『楽園の犬』
(岩井圭也 角川春樹事務所)
(海外編)
『銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件』
(Aカウフマン 創元推理文庫)
『すべての見えない光』
(Aドーア ハヤカワepi文庫)
『言語の七番目の機能』
(Lビネ 東京創元社)
それでは、皆さま、どうぞよいお年を。
2025/12/30
「アムステルダム」 Iマキューアン 新潮文庫
「ぼくの言うのは、ああいうふうに死ぬこと、意識なしに動物みたいに死ぬことだよ。おとしめられ、はずかしめられて、手を打つことも、 それどころか別れを言うこともできずに。病気がそっと忍び寄って、それから・・・」
「可哀想なモリー」と繰り返したのはクライヴ・リンリー。<保守の極北>という毀誉褒貶相半ばする名声を賜りながら、英国を代表する一人となった作曲家 である。「ああなるくらいなら自殺したはずだよ」と答えたのはヴァーノン・ハリディ。欠点も長所もない実体のなさが尊敬されて、大新聞社の編集長に成り 上がった男だった。
ロンドン社交界の花形として夫ある身で浮名を流しながら、若くして痴呆状態となり哀れな末路を辿ることになったモリー・レイン。その葬儀の式場に参列した 二人。このクライヴとヴァーノンは、学生時代から長い付き合いを続ける親友であり、そして・・・共にモリーのかつての恋人として同棲生活を送った経験を 持っていた。
というこの本は、英国小説界随一の手練れと評判も高い(以前に
『未成年』
をご紹介しました。)、その名人芸が随所に発揮されてブッカー賞に輝いた名品である。
「仮にの話しだよ、ぼくがモリーみたいに大病をして、頭をやられてひどいミスをするようになったら、・・・それを終わらせてくれる人間がいると分かって おきたいんだ」
「君から見てそうするのが正しいと思える段階にぼくが達したら、助けてもらえないか。」というクライヴからの妙な頼みに、即答できず別れたヴァーノンだった が、「OK、ただしひとつ条件がある。君も同じようにしてくれること。V」という四つ折りのメモを、ベルを鳴らさず玄関のドアの下から押し込むことになった のは、その後にモリーの夫に呼び出されて、彼女が監禁されていた寝室で、彼女の死をようやくずっしりと受け止めた所で、3枚の遺品の写真を見せられたからだ。 こちらもモリーの元恋人だった、現役の外務大臣ジュリアン・ガーモニー。それはモリーが同意の上で撮影した彼のスキャンダラスな全身像という大スクープ だった。
彼らが交わしたこの「奇妙な口約束」は、初めは「その親密さと、互いの友情への自意識的考察」から始まった、あくまで「善意に基づく契約」であったに 違いないが、スクープ獲得に歓喜するヴァーノンを、それを暴露することは結果的にモリーの信頼を裏切ることになると、クライヴが嘲ったことで口論となり、 逆に、見失った主旋律を得るために出かけた山歩きの途中で、芸術のためにレイプ現場を見過ごしたことを嗅ぎつけたヴァーノンが、クライヴを責めたことで、 二人の友情は完全に断ち切られ、ヴァーノンは思わぬ反撃によるスクープ失敗で編集長の座を追われ、クライヴは駄作しか生み出せぬまま本番を迎えることになる。 こうして二人は、その性格が180度向きを変えた「契約」を履行するために、安楽死が合法化されている『アムステルダム』のコンサート会場へと 向かったのだ。
この何ともやりきれないお話を、意外にサクサク読み進むことができるのは、もちろん著者独特のエレガントな文体によるところ大ではあるのだが、決して見逃す ことができないのは、随所にちりばめられた伏線と仕掛けの妙を楽しむことができるからでもある。「ちょっとしたジョーク」がピリリと効いているのだ。二人の 友情が最悪の大団円を迎える原因となったのは、たった一枚の葉書だった。それを一方は結果を知らずに出してしまい、一方は結果が出てから受け取ったのだ。
「君の脅迫は実に面白い。君のジャーナリズムも。クビになるのが当然だ。 クライヴ」
昔からの経験で、怒り狂って出した手紙は敵に武器を与えてやることにしかならないのが分かっていた。・・・それでも今すぐに書きたかったのは、一週間も おくと怒りが弱まるからに他ならなかった。簡潔な葉書一枚で我慢して、送るまでに一日おくことにした。
2025/12/29
「日本美術の歴史」 辻惟雄 東京大学出版会
絵画、彫刻、工芸、考古、建築、庭園、書、それに写真、デザインと、たくさんの分野にまたがる美術の流れを一人で操るのは、皿回しの曲芸にも似た 至難のわざで、自分の専門分野以外は正直いっておぼつかない。
<これから始めるのは、日本美術の流れに沿って縄文から現代までをたどる旅である。>
というこの本は、無名だった若冲を一躍スターに押し上げた
『奇想の系譜』
など、室町から江戸にかけての日本絵画史を専門とする日本美術史の第一人者が、“一人で書き下ろした美術史の概説書がほしい"、“教科書 として使えればなお結構”という無茶な要求に答えて出発した<辻流日本美術史>の試みである。あえて<皿回し>を試みることにしたのは、自分自身の狭い枠 から抜け出て、もう少し広い視野から日本美術全体の流れを眼中に収めたいという願いゆえだという。
<ところで「美術」とはいったいなにか?>
「美術」とは、明治のはじめ、西洋の fine art を日本語に訳して出来たものであり、それ以前からあった概念ではない。
日本美術は水源地である中国大陸から絶えず恩恵を受け、その質と量に応じて性質を変えてきたわけだが、では日本美術には一貫した自立的展開はないのだろうか? 外来美術の影響下にめまぐるしく装いを変える日本美術の、時代や分野を超えてその底にいつも変わらずある特質を探ることが、取り組むべき課題だった。
そんな著者は、日本美術の特徴として「かざり」「あそび」「アニミズム」の3点に着目する。
「かざり」とは、「装飾」のような翻訳用語ではなく、日本人の生活に密着してはるか以前から使われてきた、幅広く融通性に富む概念である。「あそび」とは、 一見真面目くさった日本人の生活態度の裏に隠された、豊かな遊び心を指すもので、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』から示唆を得たものという。「アニミズム」 とは、万物に精霊が宿ると信じる日本人の自然崇拝の系譜と結びついて、宗教美術のみならず世俗的な主題のなかにも絶えずその姿をあらわすという。
この3つの鍵をふところに、「ようやく装備は整った、いざ行かん!」とばかりに、日本美術史の大御所は、私たちを日本美術の探訪へと誘うのである。
アートは制作者の意識や意図を超えて存在し、のちの人々の眼によって「発見」され「再生」されるものである。縄文土器はそのよい例にほかならない。
と始まる第1章「縄文美術」で、従来考古学の対象であった「縄文土器」を美術として、緻密に論じられていくその密度の濃さに、のっけから圧倒されてしまうが、 よく考えてみればこの時代に美術と呼べるものは土器(弥生時代は埴輪)しかなく、天平文化で仏教が伝来して、そこから漸く美術対象の分野が広がっていくわけ で、逆に言えば、個々の美術に関する記述の密度は、現代に近づくに従って次第に薄まっていくような気がした。まあ、最後まであの密度で語られたら大変だけど ・・・
わたしなりに、教科書風の通り一遍から少しでも抜け出そうと、老骨にムチ打って頑張ったつもりだが、結果はごらんの通り、教科書風と自己流とのまぜご飯 のような記述となった。わたしの専門である絵画史の記述に比べ、ほかの分野、とくに工芸や書が希薄になったのも当然とはいえ心残りだ。
2025/12/25
「邪悪なる大蛇」 Pルメートル 文藝春秋
「きれいな仕事をしろと言ったはずだ」とアンリは言った。・・・その一瞬、二人の頭に同時に同じ疑問が浮かんでいた。"きれいな仕事"ってなん だろう?マティルドは自分がなにかしくじったのだろうと思い、思い切ってこう言ってみた。
「ちょっとミスっただけよ。二度と繰り返さないから」
戦争中には、その美貌に似合わぬ冷徹な革命闘士として名を馳せていたマティルドは、戦後は司令官だったアンリの下で、凄腕の殺し屋として暗躍していた のだが、
左手から先ほどの男が近づいてくる。・・・目が合うと男は会釈した。こんな瞬間から始まる出会いも時にはある。犬を連れていて、犬のことでちょっと言葉 を交わし、共感する。
車を降りたマティルドは、手にした巨大な自動拳銃で、男の股間にマグナム弾をぶちこみ、とどめに顔ではなく喉を撃って首をもげたようにしてしまう。それから、 リードの先で怯えて動けなくなって、丸い目で見上げているダックスフントの頭部を撃ち抜き、体の前半分を消滅して肉の塊としてしまう。と、指令を受けた経済 界の大物カンタンの暗殺で、必要以上に過激な殺害方法をとったことで、アンリから不審を抱かれるようになる。しかし、かつての恋心が甦り、アンリとの憧れの 隠遁生活を妄想する中で、マティルドの暴走はとどまることなく加速していくことになるのだった。
というわけで、
『その女アレックス』
に代表されるカミーユ 警部シリーズや、ゴンクール賞に輝いた
『天国でまた会おう』
などで知られるルメートルの今回の作品は、著者自身が「最後の犯罪小説」と宣言して話題を呼んだものなのだが、実は1985年に書いたまま出版社に送ら なかった「初めて書いた小説」だったと序文にある。
舞台は1985年。まだ電話ボックスや道路地図が健在で、携帯電話、GPS、ソーシャルネットワーク、監視カメラ、音声認識、DNA、集中型データ ベースなどによって自分のプロットが通用しなくなることを作家が恐れる必要のない、幸せな時代だった。(序文)
そしてなにより驚くべきことは、この物語の主人公マティルドは、夫が亡くなった家で愛犬とともに独り暮らしをしている63歳の女性だということであり、自ら は気付かぬまま認知症に侵されはじめており、曖昧になる記憶を必死に手繰り寄せながら、過去の経験や勘に頼って任務をこなすようになっていたのだ。
マティルドが巻き起こした連続殺人事件の謎を解明せんと、執拗な捜索を続ける刑事ヴァシリエフと、その養父で富豪のオスレ氏のエピソードを伏線におきながら、 「運命の意地悪なスパイラル」(編集部解説)は加速度的にその回転速度を上げて、驚愕の大団円へと突き進んでいくのである。
わたしは登場人物に対して容赦がなさすぎるといわれているが、その指摘は初めて書いたこの作品にも当てはまるだろう。多くの読者は気に入った登場人物が ひどい目に逢うことに抵抗を感じる。・・・なぜ小説家は現実の人生よりも手加減しなければならないのだろうか。(序文)
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